1歳半の娘の言葉の力と親の言葉。
こんにちは、英語子育てパパです。
このブログでは息子の話が中心になっていますが、1歳半を迎えてそろそろ言葉も出始めている娘についても触れておきたいと思います。
日本語では
「ママ、パパ、ちゃ(お茶)、どうじょ(どうぞ)、あーと(ありがとう)、やーや(いやだ)、あーぱ(アンパンマン)、ねんね」
など、短くて馴染み深い(重要な)語を、発音がそれほど正確ではないものも含めて、それなりに言えるようになってきました。
2語文はまだ話しません。
それでも語彙数的にはかなりのもので、おそらく一般的な水準からすれば大幅に超える数の語を理解して口にできるようになっています。
英語については
up(抱っこ)、open(開けて)、tea(お茶)、mummy(ママ)、dada(daddy・パパ)
など、やはり発音はつたないながらも、重要語を中心に言えるようになってきています。
発話はできないけれど意味は理解できている、ということについては、たとえば
Close the door.「ドアを閉めて」
Sit down.「座って」
Move away from the TV.「テレビから離れて」
などと指示するとその通りに行動できることから、動詞も含めてかなり多くの語彙や表現を理解していることがわかります。
これは息子のときもまったく同じでした。
息子が1歳半健診を受けたときに、問診票にその時点で発話可能な語彙を書く欄があったので妻と協力して思いつく限り書き出してみたのですが、その時は日本語と英語を合わせて100単語以上ありました。
(欄に書ききれないほどあり、小児科の先生と看護師さんたちにはびっくりされました。)
先日、娘の1歳半健診の問診票を書く際にも同様にしてみたのですが、やはり当時の息子に匹敵するくらいの語彙を覚えていることが分かりました。
べつに僕は我が子が特別に賢いとか、他の子たちよりも知能が発達しているから優秀だとか言いたいのではありません。
言葉の発達は個性によるところも大きく、覚えが早いから偉いとか、遅いから知能が発達していないということはありません。
早い子も遅い子も、いずれ同じように言語を使用できるようになるものです。
あくまで個人差の範囲でしょう。
ただ、ここで2人の言葉の発達の共通点、つまり1歳半の時点で一般的水準以上の言葉を理解し、発話することができるようになっている、という事実を振り返るとき、その要因に思い当たることが一つある、ということはお伝えしておくべきと思っています。
それは、息子のときもまったく同じように感じたことですが、やはり
親の語り掛け
が全てということです。
「全て」というと大げさかもしれませんが、それでも言い過ぎではないほどに親の語り掛けは重要であることを強調したいです。
五感を通して得たり感じたりする情報や日々刻々と変わりゆく感情など、あらゆることを思い切って言語化して伝えていく。
もちろん子どもを傷つけたり、覚えて欲しくない言葉や言葉遣いは排除しつつ、「まだこんなこと言っても理解できないから」とか「この言葉はまだ難しいから」といったブレーキも取り外し、ひたすらに言葉のシャワーを浴びせること。
大人の視線を通して、絵本の扉を通して、あるいは歌声を通して、とにかく親の声と言葉で言語の世界に導いていく。
たとえ耳を貸している様子がなくても、絵本に興味を持っている様子もなくても、BGM的にこちらの声を垂れ流すだけのような状態になっても、それでも言葉を浴びせる。
(ある本によれば、一見そっぽを向いていても子どもの耳は親の声をしっかりと捉えているものだそうです。その意味で「聞きなさい、絵本を見なさい」などと強制しなくても構わないとのこと。そもそも強制はよくありません。)
胎内にいたころから、生まれてからもずっと。
そんな取り組みを僕も妻も続けてきました。
またそれは、このブログを書き始めた当初から一貫している方法論でもあります。
娘が1歳半を迎えた今、やはりそれは間違ったことではなかったことを身をもって感じています。
乳幼児期の子どもの吸収力は尋常ではありません。
言語の天才と言われる子どもたちだからこそ、思い切って、これでもかというくらい日本語も英語も含めて、言葉を浴びせてみてください。
1歳半頃には本当に多くを理解している様を見せつけられることになるはずです。